自分のことを好きなだけ話す
今日は
自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventarのことについて綴ります。
お久しぶりです、4ヶ月ぶりです。書くネタは有り余るほどだけど、書く気力がないので放置してました。東京都庭園美術館で撮った『エルマ』のような写真を載っけた記事を書こうとした過去の自分はどこに。それ以外にも彼女とディズニーにいったり、仕事の意味わからん人間関係や政争に巻き込まれたり、Re:ゼロから始まる引き継ぎ業務みたいなことが目白押しでした。なお、現在進行系で何もわからん、俺たちは雰囲気で売上を計上している状態です。
本題から逸れました。今回は自分が日頃、どういうことを考えて生きているのかに焦点を当てて書こうと思います。この日が確か26歳の誕生日なので、すきあらば自分語りを今回ばかりは好きということにして書いていきます。
皆さんはなにか考えて生きてますか?私はほぼ何も考えてません。今日の晩ごはんはなんだろうか、噛んでしまった唇が治らなくて塩っ気のあるものが辛い、光の無銘金重を作るためにアスタロトぶちのめさないと行けないetc...そんな他愛の無いことを思って生きています。
思えば就活してる頃から目的意識とか、行動に対する確固たる理由というのが浮かばなかったり、そもそもそんなものはないということが非常に多かったです。もちろん得たい結果のために動くことはあります。しかし、どうしてそんなことをしたのか?どうして思ったのか?という点に関しては、薄ぼんやりとしたものしか浮かんできません。そんな常に割とふわふわっとした感じで生きているんですが、思考の起源に対して思うことはなくても「これだけは守って生きていこう」と考えていることが何個かあります。
[自分の機嫌は自分で取る]
まず1つ目です、読んで字の如くです。人間は基本気分屋です、体調の良し悪しもあれば気分の浮き沈みももちろんあります。そればっかりは強弱あれど生来的に会得している機能なのでどうしようもないです、諦めましょう。
それでも、自分の機嫌を他人にとって貰うことで自分を宥めすかすのはやめようと思っています。宙船です。そうでもしないと、自分で自分をコントロールできない化け物みたいな自我が出来上がってしまう気がします。これは前職で社会人になって得た気づきの一つです。
前職は当直勤務があったので、夜勤になると必然的に職場で朝を迎えることになります。その頃の上司の一人が大変に寝起きが悪く、「おはようございます」の挨拶しただけで睨まれるような感じでした。別に気性が荒いという訳ではないのですが、とにかくいつでも機嫌が悪い。終始機嫌が悪い、良いときといえば別の先輩と特撮とスパロボの話をしているときだけみたいな感じでした。そんな人に会ったのは初めてだったので、こんなに自分で自分をコントロールできずに周囲に恨みを買うことだけはしないようにしようと思ったのがきっかけです。
このこと自体は案外、無意識でやってる人が多いのかもしれません。タバコや甘いもの、少し体を動かす等々。しかし、自分で意識するだけでも結構違うのかなと思います。機嫌を良くするための手法を確立するということにも繋がりますからね。でも最も大きいのは自分で自分の認知をするという工程を生むことで、自分が何に対して苛立ちを覚えているのかという理解にも繋がります。
仕事方面の話になるんですが、やっぱり自分だけじゃ終わらせられない、あるいは熟せないようなサイズの仕事って大抵降ってきますよね。じゃあそれを分担しようみたいな時に自分が依頼する側だったら、自分の負担が少しでも軽くなることを期待しているわけです。うまく行けばいいんですが、うまく行かないときには大変なストレスです。軽くするために依頼してんのに、尻拭いになって一人でやったほうが楽だったんじゃないかとかザラですよね。
そんなときに自分で機嫌を取れるようにしておくと、期待しすぎたのかなとかちょっと重かったかなとか考える余裕が出てきます。私はその手のことが起きると「まあ、頼んだことだし俺がやってないんだから仕方ないか」程度に思える様になりました。諦めとか諦観みたいなものにたどり着きます。
私は言うのも難ですが結構生真面目で、キッチリカッチリみたいなのをよく好みます。ただこれは欠点があって、自分の思うどおりに事が運ばないと大変に苦しい思いをします。その日寝るまで引きずってイライラしているとかが普通でした。それでもなるべく、自分の機嫌をどう取るかを考えて生きるようにしたらちょっと楽になりました。諦めることも大事で、そっから仕切り直してやっていくほうがイライラを抱えながらやっていくよりだいぶマシになることが多いです。諦めただけという見方もできるでしょうが、結局未練たらたらで後生引きずるから卯建もストレスも抱えっぱなしなのであって、諦めてリセットというのは非常に有効だと思っています。
[何事も中庸で]
やりすぎは良くないということです。やりすぎたなと思ったら一歩引いてみて相手の出方を待ちましょう。私は人に何かを教えるとそれとは全く逆のことが正しかったりすることが多いです。なぜなら、自分の信じられる確証だけで結果を導き出しているからです。要は正しい知識を持っていないから間違うわけです。だから、0か1というより当たらずとも遠からずみたいなスタンスや考えで挑むようにしています。人に間違いを教えて導くようなことをするなら、答えないほうがマシだと思います。あるいは答えの50%ぐらいあたってればいいと思います。やりすぎて取り返しが効かない、中途半端でもリカバリーさえ効かせればいいんじゃないか程度で生きてます。
[他人の不寛容にも寛容に]
ある種の開き直りに近く「お前がそう思うならそうなんだろ」と言い返したくなるような出来事も、「そう考える人もいるんだな」と自分に言い聞かせるようにしているときの信条みたいなものです。自分と他人を峻別するときの言葉でもあります。
生きてりゃ許せないことも許せる程度のこともあろうかと思います。その許容できるかは出来ないかは、自分の価値基準に照らし合わせた結果から生まれてくる。自分は他人と違うものなのだから社会通念というものはあるにせよ、隅から隅まで価値基準の何もかも違うということは大いに有り得ることじゃないかなぁと。事実、自分と相手との埋まらない差を感じて、全く話が噛み合わない意見とかインターネットに多くありそうですよね。Twitterにお気持ち表明とか流れてきてイライラするのは、これに似たような感じじゃないかと思います。
その気持を完璧に受け取る必要はないにせよ、自分の中で相手の意見を角を落として丸い状態にして、ぶつかっても痛くない(=イライラしないような)状態に落とし込むための工程という感じです。本当はもっと進化してその相手の意見をもっと理解できるようになれればいいんですけど、わざわざそこまでして色々考えを受け取りたくはないので有るんだな程度で済ませようという話です。これも最初に書いたことに似てますが、諦めとかそういうのに近いです。完全に分かり合えるなんて端っから思っちゃいませんので。
長々と文章を書きましたが、もしかしたら世間一般の方は意識せずともできるのかもしれないと書いたあとに思いました。もしそうだとしたら凄い。私はこれぐらい適当に妥協して諦めた感じでやっていかないと、生きづらくて仕方ないです。そうでもしないともっと厳密に、緻密にという方が自分にとって最も性に合った生き方なんですが世間で生きていくには肩に力を入れすぎた感じになってしまうみたいなので。眠いながらパチパチ打ってたので誤字脱字があると思いますが、これでおしまいです。読んでくれた方、企画してくれたしゃみに感謝を。次はフォロワーでもあるN0myaさんです、どうぞお楽しみ。