等身大の箱庭

おはようございます。よく寝られましたか?

2021/3/24

父親が大動脈解離で他界して今日で一週間になる。もう一週間が過ぎたと言うべきなのかもしれないが、正直よく分からない。父親が亡くなったその日は、あらゆることが押し流されて進むような日だった。ICUで管という管に繋がれて、段なら鳴っている人工弁の開閉音が聞こえてこなかった。もっとも、これは妹が最初に気がついたことで、そんなことにすら気が付かないほど頭がいっぱいだった。夕方頃には既にセンサは0を示しながら、微弱な動きが見える程度にまで落ち込んでいた。病院はまだ動いていることを理由に、ECMOまで使い延命措置を継続してくれていた。それでも身体側にも限界はあった。

心臓は倒れてから運ばれるまでの凡そ45分、止まっておりそのダメージはとても大きいものだったそうだ。大動脈解離は手術を施しても生存率は五分五分、仮に生還しても全身に麻痺が残るのは避けられないものだった。父は僧帽弁閉鎖不全、腎臓がん、数年前には脳出血と経験しており、特に脳出血は、半身麻痺の後遺症が残った。身体中にメスをいれながらも生きていた。母は病気のデパートだなどと笑っていたが、これ以上は忍びないということで延命治療は断ったそうだ。機械の警告音だけが時間の進みを教えてくれるが、幾度と鳴るその音も間隔が短くなり、脈拍の数値は比例して落ち続けていた。自分自身も断続的に鳴る警告音でどうにかなりそうだった。0を示し動きも見えなくなってどれだけ時間が経ったか分からないけれど、先生が現れて死亡確認が行われた。最期は、生きているのか生かされているのかわからないような状態だった。

ICUで泣いたのもつかの間、父親の葬儀の手配をしなくてはならなくなった。人生に1度か2度しか経験しない出来事をこんな状況下でも、やらざる得ないことには「クソイベだろ」と思ってしまった。そこからは母と妹と葬儀の規模を相談し、手探りで葬儀会社を探しケアや安置所への搬送を依頼して、通夜告別式などの段取りを考えながら進めていたら7時間ほどがあっという間に過ぎていた。他界するまでは覚えていても、その後のことは本当に朧気にしか覚えていない。しなければいけない手続き、手配しなければいけないものは忘れずにいられる。仕事のおかげだろうか、あらゆることが襲いかかってきて押し流されるような日だった。

もっと書けることはあるんだけど、ちょっとしんどいし明日の仕事に響きそうだから気が向いたら書く。ここまで書くと身バレしそうだな。